本当のものが わからないと 本当でないものを 本当にする
(安田理深『講述「化身土巻」』)
テレビで見た一場面ですが、ある中学生は、おばあちゃんの焼く卵焼きが大好きでした。しかしあるとき、焦げた卵焼きが出てきたのです。認知症になられたのでした。その子は最初がっかりしました。けれどすぐに気がつき、おばあちゃんに質問します。「迷子の子がいたらどうする?」おばあちゃんは答えます。「家まで送ってあげるよ」と。それを聞いておばあちゃんは変わっていなかったと安心するのでした。
最初は、卵を焼くという「能力」をおばあちゃんとして見てしまった。でも「能力」はおばあちゃんではない。そう気がつき、おばあちゃんの心を見ようとしたのでした。本当は、おばあちゃんにまでなった歴史全体が、おばあちゃんなのです。能力(本当でないもの)を本当だとしてしまっていたら、おばあちゃんのやさしい心に気がつかないところでした。
そうやって私たちは、本当のものが見えずに、本当ではないものを本当だと思い込んで、何でも「わかったつもり」で生活しています。自分に対しては、どうせ私は○○だといって決めつけて悩んだり、他者に対しては、あの人はどうせ○○だからと決めつけて話を聞かずに傷つけたりしています。自分の経験を正しいと思って相手に押しつけて苦しめたり、相手の行動を勝手に期待して、裏切られたと怒ったりすることもあるでしょう。
「わかっている」という「おごり」で、本質ではないものを本質だと思い込んで、苦しんだり人を傷つけたりしている私たち。そんな姿に気がついてほしいという「願い」があるということを、仏教は「阿弥陀仏」という人物像で伝えています。本当のことに気づかせる言葉(智慧)と、気づかずに苦しんでいることを悲しむ心(大悲)の象徴が、阿弥陀さまなのです。
阿弥陀さまはいつも私たちに、「本当にわかっていますか?」と問いかけておられます。
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