あるところに、学校の先生になりたい、という子がいました。ところがその子の成績がなかなか上がらない。だからなんとか成績をよくしようと頑張りますが、よくならならずに行き詰まるんですね。その子に皆さんなら、どんな声をかけるでしょうか。もっと勉強を頑張れというでしょうか。先生になるのは無理だと言うでしょうか。
その子に関わった先生は、ご自身も同じように成績が上がらなくて悩んだんですね。それでこう言われたそうです。
「あなたは成績が上がらないからこそ、勉強ができない子の気持ちに寄り添える、いい先生になれますよ。」
それを聞いてその子は勇気づけられました。「成績が悪い」ということが、ただダメだということではなくて、大事な意味をもってくるわけです。この「成績が上がらないからこそ」の「からこそ」ということが大事です。「成績が上がらなくても」と、「ても」といってしまうと、アキラメですね。成績が悪いのはマイナスだけど、いいところもある、ということであれば、悪いことは悪いままです。そうではなくて。「悪いからこそ」なんですね。勉強ができないからこそ、勉強のできない子の気持ちになれる。だから一見マイナスのことに、大事な意味が開かれる、ということです。「成績が悪い」という事実は変わらないけれど、その事実のままで生きていく道が開かれるわけです。
そのように現実の「意味」を開き、歩む道を開いてくれたのは、同じように行き詰まっていた先生の「ことば」に出会って始めて開かれるということがあるわけです。
安田理深先生はこのようにおっしゃっています。
「世界というものが如何にゆきづまっても絶望もせず、開けても安心もせん。つまり世界というものを結論としないということです。世界というものを、いつでも縁として、機縁として自己を深めてゆく。」(『内観と念仏』安田理深)
私たちの「思い」は、こうなったらもうダメだ、と結論づける。けれども「思い」を越えた大事な意味を知らせる人に出会った時、そこが転機になって、広い世界が開かれるということがあるわけです。それが仏法を聞く(聞法)ということです。私たちは「思い」を満たすことだけが「自分らしく生きることだ」と思っています。しかし実は私が気づいてない私がある。行き詰まったということは、まだ気づいていない大事な意味に気づく転機になるということを教えていただく言葉です。
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