死にむかって
進んでいるのではない
今をもらって生きているのだ
(鈴木章子(あやこ))
鈴木章子さんの詩「変換」の中の言葉です。鈴木章子さんは、北海道、知床半島の斜里町にある真宗大谷派西念寺の住職の奥様で、斜里大谷幼稚園の園長をつとめておられました。また、四人の子どものお母さんでもありました。四十二歳のとき乳癌の告知を受け、転移した癌のため肺の切除など、四十六歳で亡くなるまでの四年間の闘病生活の中で、念仏の教えを通して、生きるとはどういうことかを問い続けられました。
もともとゼロだった私が、今生きている。マイナスになっていく引き算の人生ではなく、もともと無かった新しいいのちを、毎日いただいている。そんな「足し算の人生だ」と受けとめて行かれました。著書『癌告知のあとで』の中でこのようにおっしゃっています。
よく新聞などで有名人がガンでなくなると、「ガンに負けた」といいますが、死が負けであるなら、生きとし生けるものすべて敗者であろうかと思います。私は肺一葉切りとることにより、元気なころよりも自分の体を自覚し、「手もあった!脚もあった!あれもこれもあった!あった!」と、思いもかけずありあまる程沢山のものをいただくことができました。また、ガンという病気のおかげで、死をみつめなおし、過去四十六年の生命をもう一度生きることができました。
四十六年間、気づかずにいたものが次々と出てきて、発見するたびに「私の四十六年間の重み 輝きとなって四十六年間の充足がある」ともおっしゃっておられます。
ともすれば私たちは、自分の思いで自分のいのちの価値を勝手に決めて、こうなったらダメだと言って行き詰まります。老病死をはじめとして、生きることを根本から揺るがすようなことが起こったとき、自己を見失ってしまうことがあります。しかし本当は、いつも自分の足下で光っている自己がある。その自己の光を見失うことなく、最後の瞬間まで輝かせ続けた人に出会ったとき、私たちは人生を導かれるということがあります。そういう人を「仏陀」というのでしょう。人に出会うとき、「仏陀として出会う」ということが、私たちにとって大変大きな意味を持つといえます。
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