不安は私のいのちやもん
不安とられたら生きようがないわ (山崎ヨン)
「不安は私のいのち」—えっ?と思うかもしれません。私たちは「不安」がないことを願って生きていますから。これは、七十歳の山崎ヨンさんの言葉です。聴覚障害を持った娘さんと二人暮らし。そこでこんなことがあったといいます(松本梶丸『生命の大地に根を下ろし』より引用)。
こないだも、ある新興宗教の方がこられて、「婆ちゃん、不安ないか」とおっしゃる。「ええ、不安ありますよ」というと、その人、「不安あるでしょう。わたしら、その不安をとる会を無料でしとるさけ、婆ちゃんもそこにいって、不安とってもろたらどうや」といわれる。
このように新興宗教の勧誘の人が来るのです。不安が大きいとふと頼りたくなるかもしれません。それに対してヨンさんは思いがけないことを言います。
「そうか、ご苦労さんやねえ。不安の世の中でねえ。そやけどこの不安、あんたらにあげてしもうたら、ウラ、なにを力に生きていったらいいがやろね。不安は私のいのちやもん。不安とられたら生きようないがんないか。ウラ、まだ死にとねえもん」というたら、その人、私の顔みて目つぶっとる。「なんしとるがや、あんた」というたら、「婆ちゃんのこペ(ひたい)に光さしとるわ」といって帰っていかれた。
ヨンさんは、不安があるから生きられる、と言ったのです。それはどういうことでしょうか。
ヨンさんは、娘さんが障害をもって生まれてきたとき、不安でしょうがなかったのです。あるときは「二人であの世にいこう」といって寺を回ったといいます。「この子がいるから自分が犠牲になった」と、不安の種を除こうとしたのです。しかしヨンさんは、仏の教えを聞く生活の中で、仏の「智慧」の眼によって、自分の立場を立てて我が子すら邪魔者扱いする、自分の「鬼」の心に気づいていかれました。「不安」があるからこそ、仏の教えを聞く耳が開かれ、人間であることを見失った自分が、再び人間であることを取り戻す縁としていかれたのです。
宮下晴輝先生は「なぜ苦しむのか。それは真実(ほんとうに大事なこと)を求めているからです。苦しみそれ自体を支えているのは、真実を求める心なのです。苦しむという形で、私たちは、真実を求めているのです」(『はじめての仏教学 ―ゴータマが仏陀になった』( )内は筆者補足)と言います。世の中には信じられる大事なことなど何もないと言ってしまえば、何も信じられないといって苦しむ必要もないかもしれない。けれども、ほんとうに大事なことに出会う機会も失うのです。
「不安」があるからこそ、見失っている人間のいのちの深いところに出会うことができる。せっかく人間としてこの世に生まれたのだから、ここでしか出会えない深いものに出会いたい。そういう大事な心が「不安」として現れているのです。
ヨンさんは、「不安」は、真に人間であろうとする大事な心だと受けとめていかれたのです。
コメントを残す