喜ばしき一つの顔があるならば 我らの生活は立つ (児玉曉洋)
金沢の「崇信学舎」という仏教の学び舎に通っておられた、浅田友井(ともい)さんのお話しです。浅田さんは筋萎縮性側索硬化症(ALS)という非常に進行の早い運動神経の難病にかかりました。晩年、「あと三年半の命だ」と医師に言われるほど症状が進行した頃、同じく崇信学舎に通っておられた宮森忠利さんは、浅田さんに会いに行ったそうです。
浅田さんは輝くような顔で、「一日一日が新しい」「一日一日が恵まれた一日だ」と言われ、宮森さんは「私はその場を動けんようになった」「念仏に生きるとはこんなことなのかと教えていただき、この人の世界はどんな世界なのかという問いをいただいた」とおっしゃっています。
ALSは非常に厳しい病気です。徐々に全身が動かなくなっていきます。今までできていたことができなくなり、これまで頼りにしてきた生きる支えが次々と崩れ、寝たきりになっていきます。生きる意味を失いかねないような過酷な状況もあったでしょう。それにもかかわらず、何もできなくても、一日一日が新しいいのちを生きている、とはっきりとおっしゃったのです。
それからしばらくして亡くなられた時、児玉曉洋先生、「この人の人生は『いぶし銀』の人生であった、辛いことは山ほどあったけれども、苦悩とともに深まって、輝いていかれた人生であった」とおっしゃったそうです。
苦悩がなくなるわけではない。しかし苦悩の中にあっても、いのちを輝かせ続けた人の「顔」は、ただ”笑顔でよかった”とか、そういう表面的な見た目ではなく、足下でしっかりと光っているいのちを生きる喜びを示してくださったと言えるでしょう。そういう「喜ばしき顔」に出会うということは、私たちが老病死をはじめとするような、生きることを根底から揺さぶる問題に直面したときに、深いところから支える力になるのではないでしょうか。
『無量寿経』の物語には、ずっとお釈迦さまのそばにいた阿難という一番弟子が、あるとき改めて「今あなたのお顔は輝いている」と、新たに出会いなおしたエピソードが語られています。阿弥陀仏が仏様になる前、法蔵菩薩という名前の菩薩だった頃、世自在王仏という仏様に出会って、同じく「今あなたのお顔は輝いている」とおっしゃいました。『無量寿経』の物語は、行き詰まった者が再び歩み出すところに、「尊いものとの出会い」があるということを説いています。
私たちは普段、「自分の関心」で人に出会います。能力が高いか低いか、自分にとって損な人か得な人か、見た目が美しいかどうか、そんな自分のものさしを通して出会い、人の顔色をうかがって生活しています。しかしそれでは「自分の関心」に出会っているだけで、ほんとうに「人に出会っている」と言えるでしょうか。自分の関心を超えて、「一人の人間の尊い姿に出会う」ということが、私たちを生かす大きな力になるということを、ALSになった浅田さんの姿から教えられます。そして浅田さんも、尊いものに出会ったからこそ、苦悩の中を歩むことができたのでしょう。
私たちは、尊いものに出会うことを忘れて、狭い自分の関心の中で右往左往しているのかもしれません。「ご本尊」(ほんとうに尊いもの)はそのことを思い出させてくださいます。










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