2026年2月の法語掲示板

一番はもちろん尊い しかし、一番より尊いビリだってある (東井義雄)

一番になることは誰しも嬉しいことです。学校では徒競走や勉強の成績、社会では、業績や収入、病院に至っても認知症のテストまで点数がつきます。少しでも上を目指して、上にいるのが幸せだと思い、順位や誰かからの評価を気にして生活しています。

けれどもそれは、人生にとって最も大事なことでしょうか?人生がそんな順位や点数で決まるものであれば、誰もが負けて、マイナスになって人生を終えていかなければなりません。認知症のテストなんかで、その人の価値が決まるわけがありません。人間はもっと豊かなものを持っているはずです。順位では量れないもっと深いものを持っているはずですが、それが見えなくなっています。

東井義雄という先生がおられます。生徒に「僕は弱くていじめられる。運動会が苦手だ」という子がいました。徒競走もにやにやしながら走っていたそうです。ところが六年生の時、東井先生から「ビリでも一生懸命走れ」と言われ、一生懸命走るようになり、いじめられなくなったといいます。東井先生はこう言います。

ビリであることは、ちっともはずかしいことではない。なまけることのほうが、よっぽどはずかしいことだ。走ることに限らず、生きていく間には、いろいろなことでビリを走らなければならないことがあります。

しかしそのとき、どうか日本一立派なビリであることができるよう、こころがけてほしいと思います。堂々としたビリであってほしいと思います。これは、なかなか難しいことです。ビリになると、どうしてもひくつになり、はずかしくなり、こころまで貧乏になりやすいからです。ですが、ビリの味のわかる人間でなければ、困っている人、弱い人、貧しい人の気持ちなんか、絶対にわかるものではありません。(『東井義雄「こころ」の教え』)

世の中は、あるものさしで「比べる」ことばかりです。しかし「比べなくていい世界がある」ということでしょう。ある人が一生懸命走った、しかしビリだった。世の中の評価基準は、100点満点で50点だと負けだといいます。しかし”阿弥陀さんの評価基準”は50点とれる人が50点取ったら満点なのです。その人がありのままでいることが尊いと見るのです。そして一生懸命の結果として行き詰まったからこそ、行き詰まった人の心がわかる。一生懸命だったからこそ、そして行き詰まったからこそ見えてくる世界があるのです。

私たちは自分のものさしで、人を比べ、評価し、順位をつけます。しかし「仏」は、あらゆる「尊さ」を見る眼差しを持っている人です。生まれたとき「天上天下唯我独尊」「われまさに世において無上尊となるべし」と言ったという有名なエピソードがありますが、人と比べて自分が一番偉いと言っているのではないのです。「最上尊」ではなく「無上尊」ですから、上も下もない、誰もが一人尊い、仏はその尊さに気づいた人だということです。

比べる必要のない世界を「浄土」といい、その浄土が確かにあると思い出させてくれるのが「念仏」なのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です