去る5月9日(土)、皆さまのおかげさまで、第二十二世住職継承法要(兼 永代経法要、兼 先代住職一周忌法要)を無事勤修することができました。当日の動画をYoutubeにて公開いたしました。また表白全文、新住職挨拶、「住職継承法要にあたって」を公開いたします。
動画
式次第
(*pdfファイル:解説入りの式次第)
先 着座楽
次 出仕(下臈出仕)
次 総礼
次 伽陀 稽首天人
登高座 三礼
次 表白
次 伽陀 萬行之中
次 御経 仏説阿弥陀経
行道散華
次 伽陀 直入彌陀
下高座
次 先代住職法名前 焼香
次 総礼
次 正信偈 草四句目下(同朋奉讃)
次 和讃 弥陀成仏のこのかたは
次 回向 願以此功徳
次 総礼
次 退出楽
次 退出(下臈退出)
記念式典
先代住職 岸上正(浄敬院釋正雲)論功行賞
祝辞
新住職 岸上仁(釋正仁)挨拶
記念法話
宮下晴輝師
恩徳讃
表白(全文)
住職継承法要 表白 (*pdfファイル:住職継承法要表白)
本日ここに、真宗大谷派岸上山受念寺におきまして、住職継承法要を厳修し、併せて永代経法要並びに先代住職・浄敬院釋正雲の一周忌法要を兼修するにあたり、阿弥陀如来の尊前に、謹んでこの法要を奉告申し上げます。
およそ私どもの歩みは、老病死をはじめとするさまざまな苦悩の歩みであります。その苦悩を遠ざけようとする中にあって、尽きることのない迷いの現実と、愚かな自己のあり様を日々知らされております。
しかしながら、そのような私どもをこそ憐れみ、如来は大悲の本願を発されました。そして、自己を見失った私どもに、本来の自己に帰れと呼びかけるその願いに出会い、念仏に生きる道を歩まれた先人が確かにあることを、親鸞聖人のお姿を通して教えられてまいりました。
この度、私 釋正仁、本願念仏の聞法道場として創建された、この受念寺の第二十二世住職を拝命いたしました。
思えばかつて、生きることに行き詰まり、人生をあきらめかけていたこの身が、今日、ここに座らせていただいておりますことは、まことに不可思議なるご縁と申す他ありません。生涯の師と法友との出会いにより、生きることを学ぶ場が開かれ、さまざまな有縁の方々と語らい、そして家族に日々生活を支えられ、今日まで歩ませていただきました。
そして、そのような出会いへとこの身を押し出してくださったのは、この受念寺において五二〇年にわたり息づく、無名の先達の真摯な聞法生活の積み重ねと、先代住職である父の歩みに他なりません。
世間においては、自分よがりのものさしで人を評価するばかりで、真摯に苦悩に耳を傾ける眼差しが見えにくくなっております。しかし仏教は、生きることに真正面から向き合い、もがき苦しんだ人々の歩みの中から紡ぎ出された、血と涙の結晶であります。そこにこそ人間の真実の姿が示されております。
老病死の苦悩を抱える私どもが、このどうにもならない宿業の身のままに、南無阿弥陀仏のお念仏に照らされ、お念仏に育てられ、この苦悩を縁として、生きることを共に聞き開いてゆく僧伽として、受念寺は長きにわたり護持されてまいりました。
このたびのご縁を承け、その歩みを受け継ぎ、仏法が生きてはたらく念仏の僧伽となるよう、有縁の皆様とともに歩んでゆくことを、謹んでここにお誓い申し上げます。
令和八年五月九日
岸上山受念寺第二十二世住職 釋正仁 敬って白す
新住職挨拶
本日は、皆さまご多忙の中、受念寺にご参詣いただきまして、ありがとうございます。
毎年この時期は、受念寺では永代経法要を行っております。多くの先達の方々を大切なご縁として、お念仏の教えを通して、亡き人のいのち、そして自分自身のいのちを深くたずねていく行事として大事におつとめしております。
そしてちょうどこの時期が、先代住職の一周忌に近いということで、一周忌法要を兼修させていただきました。また、昨年九月末に、私が第二十二世住職を継承させていただきました。そのご奉告の法要を、先代住職の一周忌という節目に執り行わせていただきました。
先代住職は昨年5月の永代経法要のときには、まだ何とか話ができていましたが、やはり病には抗えず、5月16日が命日となりました。
その「命日」ということについて、児玉曉洋先生が大事なことをおっしゃっておりますので、プリントに掲載いたしました。
「それは 死者から生きることの意味が問われる時
その人が命終わったその日を
何故 〝いのちの日〟と呼ぶのだろう」(中略)
御命日は 真実の〝いのち〟に目覚める時
御命日は だから 〝おんいのちの日〟(児玉曉洋「御命日を機縁として」)
とおっしゃっています。「あなたは本当にいのちを生きているか。」「自己中心のものさしでいのちを量るばかりで、本来の”いのち”を見失い続けているのではないか。」そういう大事な問いかけはなかなか日常の中から聞こえてこないわけですが、しかし、亡き人を通して呼びかけられるということがあります。いのちが終わっていくことは悲しいことですが、同時にその人の一生の歩みを通して、喜びも悲しみも良いも悪いもいろんなことがあったけれど、その人がその人としてこの世に生まれて、一生を歩んだ、その歩みがまるごと尊いと教えていただきます。
そういう、人間として生まれたからには、この生涯のうちに何としても気づかなければならない尊さがある、それに気がついてほしい、といつも私たちは呼びかけてくださる存在として、前におられる阿弥陀さんは、ご本尊として現れてくださっていると教えていただいています。
私は医療の世界に入って25年たちましたが、神経難病の患者さんからは、日々、非常に厳しい状況からの問いかけがたくさんありました。生命は生きているけれど、この状況では自分のいのちが生きらない、という悲痛な叫びがありました。それはただ難病の患者さんに特別なものではない、私自身の叫びでもあると仏教を通して教えられました。
お寺というのは、そういうどうにもならない境遇にぶつかった苦しみや、最愛の人を失った悲しみや、そのような老病死を始めとする人生の苦悩を抱える私たちが、苦悩を縁として、仏のもとで共に「生きること」を学び、共に”いのち”を確かめる場なのではないかと思っています。
世の中には、生活の手段や、苦悩を直接的に癒やそうとする手段はいろいろ溢れていますが、どうにもならない苦悩を抱えて生きることを、共に語ることのできる場所はなかなかありません。お寺こそそういう場所として大事にされてきたはずなのに、昨今、寺がそういう場所ではなくなってしまった、寺で仏法が聞こえてこない、”いのち”の話ができない、ということを耳にします。
そういう中で、これまでの受念寺での取り組みについて、少しまとめておきましたので、また眼を通して頂けたらと思いますが、まだまだ至らないことばかりですので、これからご門徒の皆さま、有縁の皆さまとともに、新住職として、この受念寺が、本来のお寺の姿に立ち返り、お念仏の僧伽として、生きてはたらく場所になるよう、歩んで参りまいりたいと思っております。今後とも皆さまのお力添えをよろしくお願いいたします。以上でご挨拶とさせていただきます。
(*pdfファイル:『受念寺 住職継承法要(兼 永代経法要 兼 先代住職一周忌法要)にあたって』)










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