2026年7月の法語掲示板

終活は人生の店じまいでなく 
却って店開き 自分の最も大切な問題に取り組むことです (池田勇諦)

「終活」という言葉をよく聞くようになりました。誰が言い出したのかわかりませんが、おそらくもともとは「就職活動」を略して「就活」というから、洒落で、人生の終末期にしておかないといけないことを「終活」というようになったのでしょう。

終活と言えば、私物を片付けたり、財産を整理したり、医療や介護の方針を決めたり、お墓のことを考えたりと、何となくさみしい、人生を終えていく“店じまい”のような印象があります。

しかし、池田勇諦先生は、「終活で一番大事なこと」は何だと思われますか?と問いかけられます。そして次の一つの川柳を手がかりにお話しされます。

「行く先を 告げずに友は 逝きました」

生きている人が行方不明になったら誰もが探します。見つからなかったら警察にたずねます。では、亡くなった人が行方不明のときは?私たちは、先に亡くなった人が逝かれたところがわからないわけです。そうすると、自分も亡くなったらどこに逝くかわからない。池田勇諦先生は、こうつづけます。

「自分がどこへ逝くのか」ということを告げていくことが、私は終活で一番問われている一大事なのではないかと申し上げたいのです。

けれども、今も言いますように、それが言えない。告げられない。なぜでしょうか。どうして言えないのでしょうか。それは、「死んだらしまい」という、いのちしか生きていないからではないでしょうか。違いますか。死んだら終わりだという、いのちしか生きていないから、返事ができないのです。そうすると私は、終活の問題というのは、実は人間に生まれた根本課題、それは何を根拠に生きるのか、という生きる拠りどころと、方向が問われている問題なのでないか。それがほかならない「あなたは、どんないのちを生きているのか」。それが問われているのが、終活ではないのか。(2019年11月29日真宗本廟 報恩講)

私たちは、ともすれば簡単に「死んだら終わりや」と言ってしまいます。私たちの日常の感覚では、生はプラス、死はマイナスと普通に考えるのです。すると皆マイナスになって死んでいく。しかし阿弥陀仏の見方は違うのです。生まれなかったらゼロのいのちが、毎日新しく生きていると考えるのです。だから死の瞬間までプラス、最期の一呼吸の瞬間まで新しい命が生きていると見る。だから阿弥陀仏に出会えば、死は生の終わりではなく、生の完成なのです。

そういうことから、「死んだら終わり」という人生ではなく、最後の瞬間まで命を輝かせるような人生を歩んだ人のことを「浄土に往生した」と表現してきたのでしょう。

ですから、あなたはどこへ逝きますか?と尋ねられたら「私は浄土に逝きます」といって死んでいけることが、満足に生きたと言うことでもあるわけです。

では、浄土に逝くような人生とは何か?店じまいしている場合ではない、かえって店を開いて、その大事な問題を尋ねることが「終活」で一番大事なことではないか。そう池田勇諦先生は問われました。そのことを、蓮如上人は「後生の一大事」と表現されました。後生といっても死後のことではなく、「どんないのちを、どこに向かって生きているか」と今を尋ねることなのです。(文責:受念寺住職 岸上仁)


英会話教室(初級)
7月4日(土)午後2時〜(場所:念々堂(寺に併設の図書館))

仏教書の輪読会 [第2金曜日]
7月10日(金)午後2時〜(場所:念々堂)

リコーダーカルテット演奏会
7月11日(土)午後1時〜 (場所:受念寺本堂)

「生きること」を学ぶ会−医療と仏教の交差点で”いのち”の声を聞く−
7月18日(土)午後2時〜3時半(場所:念々堂)
詳細やお申し込みはこちらから。

◇おあさじ(晨朝法要。朝のおつとめのこと)[第4土曜日]
7月25日(土)午前7時半〜 (15分程) (場所:受念寺本堂)

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