人間は理想を失った瞬間から
現実に流されるだけの存在になってしまう (平野喜之)
世界情勢はおさまるどころか昏迷を極めています。アメリカによるイラン攻撃、イスラエルによるガザやレバノンへの攻撃、ロシアによるウクライナ攻撃など、武力で解決しようとする動きは留まるところを知らず、さらなる憎悪を生み出し続けています。
こうしたことは国家間だけではありません。身近な共同体でも、自分にとって気に入らない人に対して、立場を利用して一方的に嫌がらせをするようなことも起こります。相手が気に入らなければ、力でねじ伏せる。そのような理不尽が後を絶ちません。
そんな現実を目の当たりにすると、「話し合いで解決できる」という言葉は「理想論」として、空しく響くかもしれません。
しかし長年、戦争や憲法、カルト問題に取り組む平野喜之氏は、次のように述べています。
たしかに理想だけでは世界は動きません。しかし、人間は理想を失った瞬間から、現実に流されるだけの存在になってしまうのではないでしょうか。考えてみれば、ある意味、日本国憲法第九条もまた理想かもしれません。
戦争をしない、武力による威嚇をしない。武力によって問題を解決しない。そのような理想を掲げたからといって、世界から戦争がなくなるわけではないでしょう。
それでも私たちの先人は、その理想を憲法に刻みました。なぜでしょうか。
それは戦争の悲惨さを知っていたからです。武器が問題を解決するどころか、さらに大きな憎しみと暴力を生み出すことを知っていたからです。だからこそ、「武器ではなく対話を」という願いを捨てなかったのだと思います。
武器の力を信じるのか。それとも言葉の力を信じるのか。
(平野喜之「武器ではなく対話を(5)」『崇信』2026年7月号)
今日の国際社会を見ても、「武器ではなく対話を」という理想は、決して実現したとは言えません。しかしその理想があるからこそ、「どうすればその理想に近づけるのか」と探求することができます。理想を失えば、その探求そのものが失われてしまいます。
介護施設や病院にも、「一人一人を尊重する」といった理念が掲げられています。現実にはその「尊厳」を見失ってしまうのが私たちの愚かなところです。しかし理念があるからこそ、「どうすれば一人一人を尊重できるのか」と問い続けることができます。現実は甘くないなどと言って理念に立ち帰ろうとしなければ、大事なことを見失ったまま現実に流されるしかありません。
仏教は私たちに、目指すべき人間像を「仏」として示しています。「仏」とは「目覚めた人」という意味ですが、何に目覚めたのかといえば、私たちが本来もっている尊厳性に目覚めたということです。言い換えれば、どんな状況であっても人間であること見失わずに歩み見続けた人です。そんな仏に出会う場所を「浄土」といいます。
阿弥陀仏の「願い」とは、仏に出会うような人生を歩んでほしいという願いです。その願いが「南無阿弥陀仏」という言葉として私たちに届き、その願いに「南無阿弥陀仏」で応えるのです。阿弥陀仏の願いに応えて歩んできた先人が無数におられるのです。現実に流されることなく、その歩みに学ぶことができる。それは私たちにとって大変心強いことです。











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