回心ということは上品なことではない 大恥をかいた告白である (安田理深)
「回心」は、「えしん」と読みます。親鸞聖人は「回心というは 自力の心を ひるがえしすつるをいうなり」とおっしゃっています。「自力の心をひっくり返して、捨てる」と。それは一体どういうことでしょうか。「自力の心を捨てる」といわれると、自分を無くしてしまうことのように思われるかもしれませんが、そういうことではありません。
私たちは、成功と失敗を繰り返ながら人生を歩んでいます。その中で、どうしても「成功体験」にすがりたくなります。「これで成功してきたのだから、次もこれでいけるはずだ」と。努力して成功した人は「努力こそ大事だ」といいます。お金で苦労した人は「結局、お金が大事だ」といいます。そうして自分の経験をもとに、「これが正しい」という”ものさし”を作っていきます。
そしてその”ものさし”を使って人を見ます。努力する人が良い人、しない人は悪い人。お金をくれる人はいい人、くれない人は悪い人。そのように人を分け、自分自身も縛られていきます。
しかし本来その”ものさし”は、限られた経験から作られたものにすぎません。日常生活では役立つこともありますが、当てはまらないことも当然あります。ところが私たちは、その”ものさし”が何にでも通用すると思い込んでしまいます。そして、努力ではどうにもならないことや、お金を積んでも解決できないことに出会ったとき、行き詰まるわけです。
病気はまさにそうでしょう。どれほど努力しても、どれほどお金をかけても、治らない病気があります。また、人間関係も同じです。自分では正しいと思っていた“ものさし”が、かえって人を傷つけてしまうこともあります。
私たちは、自分の”ものさし”を、当てはまらないものに当てはめて「こんなはずじゃなかった」と歎いているのではないでしょうか。親鸞聖人の言われる「自力の心」とは、そのように自分で握りしめて離せない”ものさし”のことでしょう。その心を「ひるがえして」とは、自分を捨てたり、投げやりになることではなく、「阿弥陀仏の心」を聞いていくということなのです。
しかしそう聞くと「回心」というのは、どこか上品な、高尚なことのようですが、安田理深先生は「大恥をかいた告白である」と言います。それはどういうことでしょうか。
私たちは、「自分は間違っていた」と間違いを認めることがなかなかできません。恥をかきたくない。これまでの成功体験にすがりつきたいのです。だから、よほど行き詰まり、大恥をかかなければ「自力の心を捨てる」などということはできないのです。
私は医者として、特に神経難病の専門家として自信を持って歩んできました。しかしある患者さんからの言葉によって、その自信を大きく崩される出来事がありました。また仏教の先生からの大事な問いかけがありました。自分自身の行き詰まりをきっかけに、私は仏教を真剣に聞き始めました。けれども、それでもどこかで、「自分はわかっている」という心が残っています。阿弥陀さまの眼差しはそういう私の姿も見抜いておられます。
喩えるなら、阿弥陀さまは私たちに、”溺れない泳ぎ方”を教えてくださっています。にもかかわらず、私たちは「自分の泳ぎ方が正しい」といって、その声を聞かずに溺れていくようなものです。せっかく教えてくださっているのだから、これまでの間違いをしっかりと恥じ、それをご縁として耳を開いて聞かなければなりません。
◇英会話教室(初級)
6月6日(土)午後2時〜(場所:念々堂(寺に併設の図書館))
◇仏教書の輪読会 [第2金曜日]
6月12日(金)午後2時〜(場所:念々堂)
◇おあさじ(晨朝法要。朝のおつとめのこと)[第4土曜日]
6月27日(土)午前7時半〜 (15分程) (場所:受念寺本堂)
◇リコーダーカルテット「カクテルズ」演奏会
7月11日(土)午後1時〜 (場所:受念寺本堂)
◇「生きること」を学ぶ会−医療と仏教の交差点で”いのち”の声を聞く−
7月18日(土)午後2時〜3時半(場所:念々堂)
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