こんなにも哀しい人間を 悲しむことのできないことが
人間にとっての真の危機である (加来雄之(かくたけし))
この言葉は、加来雄之師が「哀しみと悲しみ」(『親鸞仏教センター通信』第90号)という文章の中で記されていた言葉です。この文章では、遠藤周作が小説『沈黙』の舞台である長崎の「沈黙の石碑」に記した言葉が、最初に掲げられています。
「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」
どうならないものを抱えて生きる人間の哀しみと、その人間の思いの及ばない海の深さが対比されているように思います。
例えば、認知症になったかたが、”徘徊”するといいます。徘徊といえば、意味なく歩き回っているようですが、よく確かめてみると、「昔住んでいた家に帰ろうとしていた」「昔の職場に行こうとしていた」ということがわかる場合があります。
慣れ親しんだ家、自分が懸命に仕事をしていた場所。それは、その人にとって「確かな居場所」だったのでしょう。私たちは自分の「確かな居場所」がなければ、不安で日々を落ち着いて過ごすことが難しくなります。誰もが「確かな居場所」を求めているのです。
しかし現実には、その「確かな居場所」が崩れるということがあります。老い、病、そして死。私たちは、自分の力ではどうにもならない現実を生きています。そこに人間の根源的な哀しみがあるのではないでしょうか。
ところが私たちは、そんな人間の哀しみを悲しむことができず、”徘徊”を見ても、「認知症のせいで徘徊して迷惑だ」としか見られないことがあります。そうすると、それは認知症になったその人だけの「個人の問題」になってしまいます。その人の行動の奥にある哀しみも、私たち自身が同じ哀しみを抱える存在であることも、見えなくなってしまうのです。それでは哀しみを悲しむこともできません。
人間であれば誰もが抱える哀しみがある。それを個人の問題として片づけるのではなく、哀しい人間のあり方を共に悲しむ心を、私たちは奥底で求めているのではないでしょうか。
世の中では、哀しみを紛らわすことはたくさん溢れています。気晴らしや笑い、介護で言えばレクリエーションなどもそうでしょう。私たちは楽しいことを探します。もちろんそれも人間には必要です。しかし、それだけでは間に合わない哀しみが人間にはあるのです。
その哀しみを見つめ、担う心がなければ、私たちは行き詰まってしまいます。そんな私たちの哀しみを、見捨てることなく担おうとするはたらきは、実はいろいろな形で、私たちに向けられ続けているのです。そのはたらきを、仏教では「如来の大悲」として受けて止めてきたのではないでしょうか。私たちの哀しみを真正面から共に悲しんでくださる心です。
哀しみを通して、その「如来の大悲」の心に触れる場所がお寺であり、そういう場所だからこそ大事にされてきたのではないでしょうか。 (文責:受念寺住職 岸上仁)











コメントを残す