暇つぶし以上に 何をしていますか (小椋佳)
ちょっと、どきっとする言葉ですね。これは小椋佳さんの『暇つぶし以上に』という歌の一節です。この言葉を聞いていろんな反応がありそうです。「もっと有意義に生きないと」と振りかえる人もいれば、「いや、ちゃんと仕事をしている」「暇つぶしなんてしている暇ない」「暇つぶしで何が悪い」などと反発したくなるかもしれません。
ともすれば、この歌詞を、「人生を無駄にせず、有意義に生きなさい」という説教のように聞いてしまうかもしれませんが、そうではないでしょう。「暇つぶし以上に何をしていますか」という問いの前に、このように歌われています。
借りてきたばかりの上に/自分のしあわせのせている/あなたが僕には悲しい
私たちはそれぞれに、これが幸せだというものを思い描き、そのために毎日忙しくしています。仕事をしたり、人に会ったり、予定を埋めたり、スマートフォンを見てみたり、次から次に何かをしています。けれども、その忙しさの全体が実は「暇つぶし」になってはいないでしょうか。「これが幸せだ」と自分で思っていたものも、よく考えてみれば、世間や誰かから「借りてきた幸せ」にすぎないのかもしれません。
私はほんとうに「私が生きている」と言えるものに出会っているのだろうか。誰かが決めた「幸せ」の上に乗っているだけではないか。私は、本当に私自身の人生を過ごしているのだろうか、そういう問いが聞こえてきます。さらに歌は続きます。
風がすぎされば風の中に/気まぐれのうわさを探してる/あなたが僕には悲しい
知ったかぶりした顔のうらで/いつだって他人をせめている/あなたが僕には悲しい
近所のうわさ、芸能人のうわさ、自分に直接関係のない話題に振り回されて、一喜一憂する。自分は何でも知っているような顔をして、人の良し悪しを判断し、批評し、裁く。私たちは、そういうことにずいぶん多くの時間を使っています。けれども、それは果たして自分の時間を生きていることになるのでしょうか?そして最後にこう歌われます。
たらいで生まれて おけの中まで/何もわからず生きてる/時の流れが悲しい
生まれてから死ぬまで、私たちは、確かではないものを追いかけ続けています。それが手に入れば喜び、失えば悲しむ。人から認められれば安心し、否定されれば腹を立てる。そうして一生を終えていくとしたら、私はいったい何を生きたことになるのでしょう。
もちろん、「もっと立派なことをしなさい」という話ではありません。むしろ問われているのは、「あなたは、今ここに生きているこのいのちに、本当に出会っていますか」ということではないでしょうか。人として生まれたからには、気づかなければならないことがある。そして何より、出会わなければならない「自分自身」がある。
「本当に自分自身の人生を生きていますか」そういう問いかけを通して、仏の教えに尋ねながら、自分自身を知らされつつこの一日を生きる。そのことを「念仏の生活」して大事にされてきたのではないでしょうか。 (文責:受念寺住職 岸上仁)












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